後藤静香の略歴

後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 – 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家である。
東京高等師範学校数学専修科を卒業後、大分高等女学校、香川女子師範学校で女子教育に従事する。教員時代に中学入試の参考書「算術倶楽部」を出版、ベストセラーとなる。修養団に傾倒し、その支部活動に参加するようになる。
やがて1918年(大正7年)、自ら修養雑誌「希望」を出版するために希望社(社会運動団体)を設立し、「のぞみ」「光の声」「泉の花」「大道」等の雑誌を発行するようになる。これらの雑誌は、啓蒙的な内容で、格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説したもので、男も女も修養して、よりよい人間、社会に有益な人間にならねばならないと説くものであった。
代表作というべき『権威』(詩集とも、格言集とでもいうべきもの)は、百万部を発行したといい、青少年だけでなく、全国の教育者や労働者にも愛読された。
後藤は熱狂的な読者たちに支えられ、「希望社運動」と呼ばれる様々な社会活動を行った。その一例として「点字の普及」「ハンセン病患者救済」「エスペラント運動」「老人福祉」「アイヌ救済」「現代仮名遣いの普及」などがある。
やがて彼の元には全国から熱心な信奉者が訪れるようになるが、希望社の組織が大きくなり、事業が拡大されるにつれ、資金繰りに困るようになった。また青少年に勤労奉仕を行わせていたこともあり、社会的な批判も高まった。そんな最中に、後藤はスキャンダルに巻き込まれる。狂信的な一女性読者が後藤の女性関係について新聞社にリークしたものであったが、それにより資金繰りはさらに悪化。神のように慕われていた後藤だけに、そのダメージは大きかった。さらに追い打ちをかけるように読者に詐欺罪で訴えられ、希望社と後藤の名は失墜する。[1][2][3][4]
昭和8年、希望社は解散。後藤はその後も「心の家」を主宰して、その生涯を社会教育に捧げた。
現代においても、長嶋茂雄や松坂大輔のように、彼の残した格言を愛する人は多い。

後藤静香の名言・座右の銘

  • 自分のゆくべき最上の道を、すすんでいると思うとき、生きる悦びをかんずる。自分にふさわしい最上の方法で、すすんでいると思うとき、生きる悦びをかんずる。小さいものが大きいものに、刻々と近づいていると思うとき、生きる悦びをかんずる。自然と人間が、知れば知るほど美しく見えるとき、生きる悦びをかんずる。